醜形恐怖症について

醜形恐怖症とは

醜形恐怖症は,他者には明らかではないか軽微にしか見えないが本人は重大と認識している1つ以上の身体的欠陥にとらわれることを特徴とする。この外見についてのとらわれは,臨床的に意味のある苦痛または社会的,職業的,学業的,その他の機能面に障害を引き起こすものでなければならない。さらに,本障害の経過中のある時点において,外見へのとらわれに対する反応として,1つ以上の反復行動(例,鏡での確認,自分の外見と他人の外見の比較)が反復的かつ過剰に行われていなければならない。診断は病歴に基づく。治療は薬物療法(特にSSRIまたはクロミプラミン),精神療法(特に認知行動療法),またはその両方から成る。

 

中学3年生の夏、クラスの女の子を好きになった。最初はそれが恋愛感情だとは気づかず、ただ毎日話しかけてくれて心地良いとか、その程度のものだったと思う。年相応かどうかはわからないけれど、当時はまだ性愛のいかんもわからず、ただ燻っている感情に戸惑っていただけだった。ただ不器用で、何も知らなかったんだと思う。結果的にあの初恋は失敗して、それで終わるならよかったのだけれど、持ち前の悲観的な性格と相まったことでただの甘酸っぱい青春の一コマが病的なトラウマに変化してしまった。そういえば、彼女はたしかアイドルが好きだった気がする。好きなジャニーズだかのアイドルの話を聞かされた記憶がある。何が原因かは定かではないけれど、気づいたら私は醜形恐怖になった。授業の休み時間の本鈴が鳴ると、一目散に多目的トイレに駆け込んで、鍵を確かに閉めたことを確認して、自分の顔や肌の調子を鏡でひたすら眺めた、観察して、悲しみとも怒りとも焦りともわからないため息を吐いた。人と違うことをしているのはわかっていたけれど、それが病的なことだとは思わなかった。ただブサイクな自分でいること、ブサイクな自分が他人に見られることがどうしようもなく辛かった。

通っていた中学は中高一貫で、進学の不安はなかったけれど、高校に上がって留年の二文字を試験のたびに聞かされるようになった。少しづつだけれど勉強や将来のことも考えないとなあと思い始めた。人並みな恋愛の感情も覚えて、見た目に気を使うようにもなったからか周りからは垢抜けたねと言われ、一段階大人になった気がした。動物的な意識の連続だった精神が奥行きのある時間の中で自我を持った時期だと思う。だけれど芽生えかけた自己意識は自傷しか行わなかった。実際私はダメ人間だったから、今まで目を背けてきた自分の社会的な価値に向き合った途端、病んでしまった。とにかく当時は辛かった。自分のことが嫌いで、何もうまくいかない世界が憎くて仕方なかった。

嫌いで仕方ない自分の中心にあるのはやっぱり容姿の問題だった。初恋は、たぶん健全で普通の男子の性愛というのもあるけれど、世界に受け入れられない寂しさからくる根本的な承認欲求の割合が強かったように思う。シンプルに愛に飢えていたから、話しかけられただけで要らない期待を抱いたんだ。彼女に拒絶された絶望は直接的に容姿のコンプレックスに繋がった。この顔さえ良ければと何度も思い悩んで、それだけで1日の大半を過ごすこともあった。死ぬことも何度も考えた。まだ生きているのは、いつか、あるいはどこかで、誰かに認められて愛される日が来るかもしれない期待を捨てきれないからだ。それは心のどこかで愛の味を既に知っているからなので、記憶にないか、もしくは意識に登らないだけで、誰かの愛を感じたことがあるのだと思う。それをくれた人のおかげで生きてる気がする。

他人の目なんか気にしなければいいと言う人がいる。だけれど人は他人の目でなければ何も見えない。言語も価値観も自己の外から来たものだからだ。醜形恐怖は精神病かもしれないけれど、社会的価値が低い自分に対する肯定感の低さは孤独であることを貫徹することでは解決しない。なぜなら人は孤独では生きられないから。今更全部忘れて引きこもるわけにもいかないということだ。

醜形恐怖症である精神が社会に由来するなら、それはそういう時代のそういう社会ということなんだろうか。醜形恐怖を産みやすい社会なんだろうか。個人主義への信仰がこんなに深い時代に、なぜ自分を愛せない人間が生まれるんだろうか。誰か教えてください。